私の右下の奥歯に、小さな黒い点が現れたのは、もう二年ほど前のことでした。最初は爪楊枝の先でつつくと取れる汚れかと思いましたが、取れません。虫歯かな、と思いつつも、全く痛みもなければ、しみることもありませんでした。仕事は忙しく、歯医者は怖い。そんな言い訳を自分にしながら、私はその小さな黒い点を意識的に見ないようにして、日々を過ごしていました。一年が過ぎても、その黒い点は大きくなる様子もなく、痛みも相変わらずありませんでした。私は「これは進行しないタイプの虫歯なんだろう」と、都合の良い解釈をして、さらに放置を決め込みました。しかし、問題は別の形で現れ始めたのです。ある日の夕食後、冷たい水を飲んだ時、その歯にキーンと一瞬だけ痛みが走りました。気のせいかと思いましたが、翌日、また同じような痛みが。それは徐々に頻度を増し、やがて甘いものを食べてもしみるようになりました。それでもまだ、私は歯科医院へ行く決心がつきませんでした。そして、運命の日が訪れます。友人との食事中に、ナッツを噛んだ瞬間、その奥歯から「バキッ」という鈍い音が響きました。痛みはありませんでしたが、舌で触ると、歯が大きく欠けて巨大な穴が空いているのが分かりました。観念して翌朝一番で歯科医院に駆け込むと、先生はレントゲンを見ながら静かにこう言いました。「表面の黒い点はほんの入り口で、中で大きな虫歯が進行していました。神経まであと少しのところでしたね」。結局、私の治療は麻酔をして歯を大きく削り、型取りをして銀歯を被せるという大掛かりなものになりました。治療費も時間も、最初にあの黒い点を見つけた時に来ていれば、ほんの数分の一で済んだはずです。痛みがないという事実は、決して安全の証ではない。この苦い経験を通して、私は体の小さなサインを無視することの代償がいかに大きいかを、骨身にしみて学んだのです。