奥歯が欠けても、全く痛みを感じないことがあります。これは一見すると不幸中の幸いのように思えますが、実はこの「無痛」という状態こそが、問題を深刻化させる最も危険な罠なのです。なぜ痛みがないのか、その理由を理解するためには、歯の構造を知る必要があります。歯は外側から、体で最も硬い「エナメル質」、その内側にある少し柔らかい「象牙質」、そして中心部にある神経や血管が詰まった「歯髄」という三層構造になっています。このうち、痛みを感じる神経が通っているのは歯髄だけです。つまり、欠けたのが最も外側のエナメル質だけ、あるいは象牙質の浅い部分までであれば、神経まで刺激が届かないため、痛みを感じないことが多いのです。しかし、この状態は決して安全ではありません。エナメル質という強力なバリアを失った歯は、いわば鎧を剥がされた兵士のようなものです。象牙質はエナメル質よりも柔らかく酸に弱いため、むき出しの状態では虫歯菌の格好の標的となります。象牙質には歯髄に向かって伸びる無数の細い管(象牙細管)が通っており、この管を通じて細菌やその毒素がじわじわと内部に侵入していきます。最初は無症状でも、やがて冷たいものや熱いものがしみるようになり、最終的には何もしなくてもズキズキと痛む激しい歯髄炎へと発展します。さらに危険なのは、過去の治療で神経を抜いた歯(失活歯)が欠けた場合です。この場合、歯の内部にはもう神経がないため、どれだけ虫歯が進行しても、歯が根元まで割れてしまっても、痛みを感じることはありません。本人が気づかないうちに、歯の根の先に膿が溜まったり、歯の大部分が崩壊して保存不可能な状態になったりしてしまうのです。痛みは体からの重要な警告サインです。そのサインがないからといって問題を放置することは、時限爆弾を抱えたまま生活するのと同じ行為だということを、決して忘れてはいけません。
奥歯の欠けに痛みがないのはなぜ危険か