これは、私が実際に経験した患者さんの話です。山田さん(仮名・50代男性)が私のクリニックを初めて訪れたのは、上の前歯がグラグラして、硬いものが噛めなくなった、という主訴でした。口の中を拝見すると、前歯の歯茎は赤く腫れ上がり、歯の根元は黒っぽく変色していました。そして、歯と歯茎の境目を器具で触れると、深い歯周ポケットから大量の膿が出てきました。山田さんに話を聞くと、数年前から歯の根元が黒ずんでいることには気づいていたそうです。しかし、「痛みもないし、タバコを吸うから、ただのヤニ汚れだろう」と、全く気に留めずに放置していたと言います。その黒ずみの正体は、歯周病によって形成された「歯肉縁下歯石」でした。痛みがないのをいいことに放置している間に、彼の歯を支える骨は、この黒い歯石を足場にして繁殖した歯周病菌によって、静かに、しかし着実に破壊され続けていたのです。レントゲンを撮影すると、歯の根の半分以上を支えるはずの骨が、すっかり溶けてなくなっているのが分かりました。歯は、もはや歯茎の上に乗っているだけの、風前の灯火の状態でした。私は、山田さんに、残念ながらこの前歯を保存することは極めて難しく、抜歯以外に選択肢がないことを告げなければなりませんでした。山田さんは、「痛くなかったのに、どうして…」と、ただ呆然とするばかりでした。彼は、長年連れ添った前歯を失い、その後、ブリッジかインプラントかという、さらなる治療の選択と、それに伴う時間的・経済的な負担を強いられることになりました。もし、彼が数年前に、あの「痛くない黒ずみ」に気づいた時点で歯科医院を訪れていれば、どうだったでしょうか。おそらく、徹底的な歯石除去と、セルフケアの改善指導によって、歯周病の進行を食い止め、大切な前歯を失うことはなかったはずです。痛みは、体からの重要な警告サインですが、「痛みがない」という事実は、決して「問題がない」ということを意味しません。特に、歯周病や初期の虫歯は、痛みなく進行する「サイレント・ディジーズ(静かなる病気)」です。歯の根元の黒ずみは、その静かな病気が進行していることを示す、数少ない見た目のサインなのです。この小さなサインを、どうか見逃さないでください。
痛くないから大丈夫?黒ずみを放置した人の末路